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ヨシムラプラグ – DENSO スパークプラグ

詳細スペック

1本箱
希望小売価格(円/本 税込):
品番:
2本ブリスター
希望小売価格(円/パック 税込):
品番:

ヨシムラ & DNチャレンジ40年を語る ヨシムラ & DNチャレンジ40年を語る
吉村不二雄
1948年(昭和23年)11月17日生まれ。父はヨシムラ創業者吉村秀雄。長男として生まれ、稼業を継ぎ、1989年代表取締役就任。
山田昇吾
1946年(昭和21年)2月27日生まれ。1964年4月1日デンソー入社。1975年12月渡米。デンソープラグを全米に広め、1979年12月帰国。
今から44年前にデンソープラグの販売拡大のために単身米国に渡った山田昇吾氏(現72歳)は、ヨシムラ創業者、故吉村秀雄氏とその長男不二雄氏(69歳)と出会う。秀雄氏は1973年にアメリカに渡り、1978年~81年までアメリカ最高のバイクレース、デイトナ4連勝。国内最大のバイクイベントである鈴鹿8時間耐久で1878年第1回大会、1980年第3回と優勝を飾った。巨大企業のホンダに町工場のヨシムラが挑み、勝利した劇的なドラマは、バイク史に刻まれている。
秀雄氏はエンジンチューニングにおいて神の手を持つと崇められながら、親父さんの意味を持つポップと親しみを込めて呼ばれ愛された人物だ。山田氏は1975年に渡米、1979年末に帰国するまで、米国で活躍するヨシムラと共に過ごした。ポップ吉村と不二雄氏と出会い、活動することでデンソープラグの販売網を全米に広げた。その販売網は国内の活躍を受けてアジア地域にも広がることになった。
山田昇吾氏(以下山田) アメリカ赴任になったが、2輪に関してはまったく伝手がなく、まずは、ホンダ、ヤマハ、カワサキ、スズキとディーラーを回っていたら、「アメリカスーパーバイクレース(AMA)に出かけるのがいい」とアドバイスされた。1975年の夏にカリフォルニアのリバーサイドのサーキットに出かけると、何人かいた日本人たちが、「ポップ吉村に相談するのが良い」と言う、でも、近寄りがたい雰囲気があって、なかなか声がかけられなかったよ。
吉村不二雄氏(以下吉村) 親父は愛想がないから(笑)。
山田 でも、実際は優しい人だったね。バイクに対しての信念があって頑固な人だったけど。
吉村 親父は技術者で仕事一筋、寝る間も惜しんで仕事をしていましたね。ぶつかることも多かったけど、その姿勢は、尊敬できるものだったと思う。
山田 私もセールスエンジニアとして、親父さんから学ぶことは多かった。
吉村 どんなに金がかかっても、時間がかかっても、速いエンジンが一つ出来たらOKって人でした。レースだけでなく、ユーザーに渡すパーツひとつにも、丁寧な仕事をする人でした。
山田 だから、親父さんの仕事は信用されたんだね。
吉村 でも、営業や宣伝はまったくで(笑)。
山田 だから不二雄さんが助けたんでしょ? デンソーとヨシムラで一緒に“サイクルニュース”に広告を出したりもしたよね。
吉村 営業だけでなく、山田さんとはプラグの形状を一緒に考えたり、アップデートしたり、性能が上がって行く過程を考えたりしましたね。
山田 ヨシムラと華やかな時代を過ごさせてもらって、本当に楽しかった。モーターサイクルショーにも出かけたし、AMAではアナハイム、デイトナ、ヒューストン、フロリダといろんな所に行ったよね。
吉村 リバーサイド、ワシントン、オレゴンにも出かけ、毎週、どこかでレースをしていましたね。あの頃は、レースというと、どこの町もお祭りのような賑わいでしたね。
山田 そうそう。移動時間も48時間(丸2日)が普通で、遠いところだとそれ以上かかる。我々はお祭りを楽しむ余裕はなかったけどね(笑)。
吉村 やっとついたサーキットで、作業を始めても、時間だからとサーキットを追い出される(笑)。 仕方がないので、モーテルの駐車場や部屋が整備場になって、時間の経つのを忘れて没頭していると朝を迎えるのは常だった。
山田 さらに、レース直前でプラグを大わらわで変えたり、ツインプラグをアップデートしたり、大変だったけど、ヨシムラと過ごした時間は有意義な時間だったな。
吉村 辛いこともあったけど楽しかったですよね。地元の人たちは、夢中でレースをする私たちに優しかった。豊かな国だと感じながら過ごすことが出来たような気がする。
山田 アメリカには、いいものは良いと受け入れる空気があった。だから、ヨシムラブランドが大きく広がったんだな。そのヨシムラの名声と共に我々のプラグの売り上げも伸び、全米へと広がって行った。そして、アメリカの活躍だけでなく、日本の第1回の鈴鹿8時間耐久でも優勝した。ヨシムラの活躍は海を渡って、アメリカにも届いたよ。
吉村 小さな会社だが、諦めなければ、大きなことを成し遂げられるのだと証明出来たのが鈴鹿8耐でした。
山田 その日本での活躍がアジアへも伝わり、デンソープラグが世界に広がっていった。私にとっても、デンソーにとっても、ヨシムラとの出会いは大きなものだった。とても感謝しています。
吉村 いえ、苦しい時に、デンソーさんに支えてもらったから、ヨシムラは生き残れたんですよ。そのヨシムラブランドをこれからも守って行きたいと思う。これからもデンソー・ヨシムラでチャレンジを続けて行きましょう。